2016年12月15日

1976年のケントス創業とクールスレコードデビューで大貢献した、長髪の近田春夫氏









今も50's、古のディスコファンには人気のライブハウス、「ケントス」が六本木にできたのは1976年。

で、

元々は六本木のレストランで開かれた、オールディーズの音楽パーティーが発祥元だそうで、その時のパーティーバンドのメンバーが、 60年代には「若者たち」のヒット曲を放ったブロードサイドフォーの黒沢久雄氏、元ヴィレッジシンガーズの林ゆたか氏、そしてこの後ハルヲフォンを結成する近田春夫氏等だったそうで、この音楽パーティーで、ツイストを踊り熱狂するお客さん達をみて、オーナーは「ケントス」を作る事を決めたとか決めないとか、、、

そんな伝説が残っておりますが、、、

まあ、日本公開は当時は監督のジョージ・ルーカスも出てた役者も皆無名だった為、人気が爆発したアメリカより1年以上も遅れた1974年の秋に公開された映画、「アメリカン・グラフィティ」の影響でしょう。このパーティバンドの発想も、ツイストを踊ったお客さん達も、、、。

でも、彼等は当時、長髪にラッパ、ベルボトムのジーパンの若者達で、けっして昨今のR&Rバンド、オールディーズバンドのような衣装でも髪型でもなかったでしょうし、おそらくツイストを踊ってた方々もしかりでしょう。

時代が一変したのは、やはりケントス創業年にレコードデビューした、クールスですかねー。

勿論、それ以前からキャロルやダウンタウン・ブギウギバンドはリーゼント風の髪型してましたけど、基本的に彼等は長髪をポマードでバックに撫で付けたソレで、今や常識のダックテイル系のリーゼントと違い、襟足のリーゼントの美学(笑)はなかったですね。

だから!クールスが櫛目ばっちりのダックテイルのリーゼント姿でキャロルの解散ライブの警護役でTV初登場した時は、その黒塗りで揃えたバイクや洒落た黒の革ジャンともども、とても斬新だったわけであります。




で、

このクールスの1976年のデビューアルバムのアレンジャー、編曲は全て長髪の近田春夫氏で、クールスの代表曲でもある「シンデレラ」や「言えなかったんだ」の作詞作曲も近田春夫氏で、近田氏の作曲は計3曲。

更に解散したキャロルのジョニー大倉氏作曲が4曲、矢沢永吉氏が五大洋光と名前をかえ作曲した曲が、彼等のシングルデビュー曲でもある「紫のハイウェイ」他3曲。つのだ☆ひろ氏のスペースバンドのベーシスト、ヨモ・ヨシロー氏の作曲が1曲と、全12曲中11曲迄が、当時の所謂ニューロックの方々の手により作品で、唯一メンバーの作曲は、ジェームス藤木氏の「恋の炎は燃えて」1曲のみ。

唯、作詞は舘ひろし氏が8曲、村山一海氏とジェームス藤木氏が1曲ずつで、近田春夫氏の2曲の作詞以外は、メンバーが全12曲中10曲書いているのは、ちょっと面白いですね。



posted by 麻呂 at 14:54| 和製R&Rリバイバル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月22日

原信夫とシャープス&フラッツの、SING,SING,SINGが、無茶苦茶カッコいい!!









大東亜戦争時は大日本帝国海軍軍楽隊で演奏していた、若き原信夫氏。

当サイトでも繰り返し述べてますが、大東亜戦争以前から日本にはジャズは入ってきており、戦後アメリカ進駐軍=GHQが日本にジャズを広めたというのは誤りで、唯アメリカと戦争していたので敵性音楽という事で、当時アメリカで大流行りだったジャズは、戦争中は禁止されていただけです。

大東亜戦争以前、1929年の映画音楽、西条八十氏作詞の「東京行進曲」で、♪ジャズで踊ってリキュルで更けて と、ちゃんと歌われてますから♪ ↓



まあ、原信夫氏に限らず大東亜戦争後、日本を占領統治にきた米兵将校相手に、彼等の娯楽の一貫でジャズを聴かせていた当時のミュージッシャン、ジャズマン達を抜きにして、戦後の所謂「昭和歌謡」、日本のR&RもR&BもC&W、カントリー、和製ポップス(洋楽メロディを日本語詞にのせたそれ)もあったものではなく、彼等こそが!戦後日本の昭和歌謡史の礎を築いた方々だったと、当サイト運営者は断言いたします。

で、

当時は当サイト運営者も子供だったので認識はしておりませんでしたが、原信夫とシャープス&フラッツは1960年代から1971年迄、年末のNHKの紅白歌合戦の演奏を担当しており、美空ひばりさんの専属バンドとしても活躍されてた有名なビッグバンド。

こちらの「シング・シング・シング」(Sing, Sing, Sing)も、大東亜戦争以前の1936年にルイ・プリマによって作曲された、スウィング・ジャズの代表曲の一つで、1938年にベニー・グッドマンが演奏して依頼、彼等の楽団でのテイクが、とても有名な日本でもとても人気の高い曲ですね。

で、正に!日本でロカビリーブーム、和製ポップスブーム華やかなりし1959年のNHK紅白歌合戦では、朝丘雪路氏がこの曲を歌っていたそうで、これも当サイトで幾度となく触れておりますが、ジャズとロカビリーブーム、和製ポップスブームを分離して考えるのは、或いは語るのは間違ってます。

当時のロカビリーブーム、和製ポップスブーム期、そのバック演奏をやっていたのは、ウエスタンバンドの他はジャズのビッグバンドであり、TV放映がはじまって久しい、TVが未だ珍しくて偉かった時代の歌謡芸能の世界の歌手の方々は、ジャズもラテンもロカビリーもポップスも、何でも同じように歌ってましたから。

まあ、それが真性ジャパニーズグラフィティなわけで、ジャズとジャズのビッグバンドを抜きにして、日本のロカビリーブーム、和製ポップスブームはあったものではなかったと断言できますし、特にこちらの「シング・シング・シング」(Sing, Sing, Sing)は、当時のビッグバンドの演奏するダンサブルなダンスホール、グランドキャバレー、ミルクホールで大人気だった曲。

特にベニー・グッドマン楽団のドラマー、ジーン・クルーパは、ザ・ヴェンチャーズのメル・テイラーやレッド・ツエッペリンのボンゾ、ジョン・ボーナム、キッスのピーター・クリス等のアイドルだったそうで、ロックシーンにも多大な影響を与えてる方で、大東亜戦争後、ジーン・クルーパは1952、1953年に来日しており、戦後のジャズブームの火付け役の一人とも伝わっており、、、

当時の日本でドラマーのジョージ川口氏、フランキー堺氏が人気だったのも、ジーン・クルーパのドラムブギ」、そして「シング・シング・シング」(Sing, Sing, Sing)の影響だったと、当サイト運営者は思っておりますし、石原裕次郎氏の1957年公開の日活映画「嵐を呼ぶ男」がドラマー役なのも(実際の演奏は白木秀雄氏)、ジーン・クルーパの二度の来日以降の、ドラマーブームの影響下にあったからでしょうね。

日本でも抜群の人気を誇ったアート・ブレイキーの初来日は1961年で、「嵐を呼ぶ男」より後ですし。

ちなみに「嵐を呼ぶ男」には、必殺シリーズの「婿殿」藤田まこと氏演じる中村主水の奥方、りつ役で有名な白木真理さんが、セクシーなダンサー、メリー丘役ででてます♪ ↓








posted by 麻呂 at 01:34| JAZZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月08日

日本人とリトル・リチャードは、案外密接な歴史があるかもね〜!









2016年10月現在83才。2013年に引退表明したリトル・リチャード。

その強烈なシャウトはザ・ビートルズ時代のポール・マッカートニーはじめ、多くのハードロックやヘビーメタルバンドのシンガーに影響を与え、そして元々はゲイゆえか?未だグラムロックなんて言葉もない時代からメイクしてステージに登場、同じピアニストのロックンローラー、ジェリー・ルイスと共に、後のエルトン・ジョンやミッシェル・ポルナレフ等にも多大な影響を与えた演奏パフォーマンス等々、、、

又、1950年代後半、空前の大人気になった初期エルビス・プレスリーが、リトル・リチャードのカヴァーをかなりやっていた事を鑑みても、リトル・リチャードが世界のR&R(R&B)シーンに与えた影響は、計り知れないものがあります。

おそらく日本で彼の曲を誰もが知るきっかけになったのは、1960年前後の和製ポップス(洋楽メロディに日本語詞をのせるソレ)ブーム期に、鈴木ヤスシ氏がカヴァーした「ジェニ・ジェニ」でしょう。

例えば「ダイアナ」や「恋の片道切符」や「ルイジアナママ」等、日本語カヴァーも御本家も日本では大ヒットしておりますが、基本的に日本で大ヒットしたナンバーはポップスが殆どであり、例えばチャック・ベリーはロカビリー、和製ポップスブームのリアルタイム当時、日本では全く流行っておらず、かの!エルビス・プレスリーの「監獄ロック」の日本語カヴァーと、鈴木ヤスシ氏の「ジェニ・ジェニ」こそが!日本初の大ヒットR&Rナンバーだったと思っております。

で、リトル・リチャードの名前が日本でもちょっとした音楽ファンの間に定着するのは、やはり日本デビュー1964年のザ・ビートルズがカヴァーした「のっぽのサリー」、ロングトールサリーからで、若きポール・マッカートニー歌唱のザ・ビートルズの「のっぽのサリー」は、今や当たり前のナンバーですが、この曲のポールのシャウトとザ・ビートルズのある種パンキーな演奏は、当時の若者は度肝を抜かれるわけで、ザ・ビートルズで「のっぽのサリー」を知り、そのあとオリジナルのリトル・リチャードヴァージョンを聴いたわけで(これチャック・ベリーやバディ・ホリー等もしかり)、当サイト運営者に限らず、このパターンの方、日本中に沢山いると思われます。

1966年のザ・ビートルズの来日公演時、前座の1バンドだったザ・ドリフターズは、この「のっぽのサリー」を仲本工事氏歌唱で披露してますし、今や役者としてその人ありの岸部一徳氏のザ・タイガース時代の愛称はサリー。背が高いという事で、「のっぽのサリー」からこの愛称はついてます。



更にこの後起こった空前のグループサウンズブーム期、ザ・ゴールデンカップスがリトル・リチャードのこれも強烈なR&Rナンバー「ルシール」を、何故か?スローにしてアルバム「ブルース・メッセージ」に収録しており、更にこの後のニューロック時代に登場した天才!ジミ・ヘンドリックスが、無名時代にリトル・リチャードのバックをやっていたなんて話しが広まったり、当時のハードロック少年達の星!ディープ・パープルの初来日公演では、アンコールで「ルシール」をやっており、、、

1970年代初頭に世界中でおきた、おりからのR&Rリヴァイバル、オールディーズブームに乗って、他の多くのロックンローラーがそうであったように、リトル・リチャードも今のような確固たる!R&R(R&B)のレジェンドとして位置ずけられるようになったわけであります。

昨今ではジェームス・ブラウンが無名時代、当時既に大スターだったリトル・リチャードのショーとショーの間の休憩時間に、ステージにあがって歌唱とパフォーマンスを披露した事がきっかけで、売り出すようになったと、彼の伝記映画で、ジェームス・ブラウンとリトル・リチャードの関係も描かれており↓、、、



ジェームス・ブラウンを通じて、リトル・リチャードを再評価した方も、多々いたのではないか?と思う次第であります。





posted by 麻呂 at 18:17| リトルリチャード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
ぴかぴか(新しい)こちらもおススメでするんるん