2017年02月12日

スキータ・デイヴィスがヒットさせた「この世の果てまで」(The End of the World) の、ジュリー・ロンドンヴァージョン









1963年に、かの!チェット・アトキンスがプロデュースしたそうな、スキータ・デイヴィスがヒットさせた「この世の果てまで」(The End of the World) 。こちらは当時、日本で人気の高かったジュリー・ロンドンのヴァージョン。

当サイト運営者が幼少の頃、TVでよーく日本の歌手、この曲を歌ってましたが、ジュリー・ロンドンは1964年の東京オリンピック開催の年に来日しており、TV出演もしていたので、よってスキータ・デイヴィスより彼女のヴァージョンが当時の日本では人気だったよう。

ジュリー・ロンドンは、日本でも人気番組だったアメリカの「ルート66」のテーマ曲を作ったジャズピアニストのボビー・トゥループの奥様で、そのスモーキーボイスと言われる歌唱は、日本の当時のジャズ、ポップスファンに人気でした。

まあ、当サイトでも再三再四触れておりますが、映画「アメリカン・グラフィティ」同様、アメリカでも日本でもその後の「オールディーズ」というジャンルを1970年代初頭に決定的にした、カーペンターズのアルバム「ナウアンドゼン」のB面に「この世の果てまで」(The End of the World) は収録されていたので、カーペンターズで知った方も多いと思われますし、又、日本の竹内まりやさんも自身のアルバムでカヴァーしてますので、そちらで知った方も多いかもですね。



posted by 麻呂 at 08:52| アメリカンポップス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月06日

「タミー」のデビー・レイノルズは、娘のキャリー・フィッシャーが死んだ翌日この世を去った







2016年12月27日に映画「スターウォーズ」のレイア姫役で有名な、キャリー・フィッシャーが急死したのはニュースになりましたが、その翌日、彼女のママのデビー・レイノルズが脳梗塞で亡くなったのは、あまりニュースにならなかったですね。

オールディーズ、50'sファンにはお馴染み「タミー」↑は、若き日のデビー・レイノルズが放った大ヒット曲でした(全米チャート5週連続1位)。

 ちなみに日本でも、オールディーズ、50'というジャンルをその後、確実なものにした映画「アメリカン・グラフィティ」の監督、ジョージ・ルーカスは劇中にこちらの大ヒット曲「タミー」を使わなかったですが、結局、当初は映画会社に不評だったらしい「アメリカン・グラフィティ」の大ヒットによって、ルーカスは次の「スター・ウォーズ」を撮れ、そこでデビー・レイノルズの娘であるキャリー・フィッシャーをレイヤ姫に起用し、映画も彼女も大人気になったのですから、このへんK-UNITバンマス、色々思うところがりますねー。

 「スター・ウォーズ」のヒットがなかったら、あの「エイリアン」制作はなかったでしょうし。

時代ですね。70年代はそんな時代でした。 

ちなみにキャリー・フィッシャーが原作、脚本を手がけた自伝的映画「ハリウッドに口ずけ」の監督は、あのアメリカンニューシネマの金字塔「卒業」のマイク・ニコルズで、勿論「卒業」の挿入歌はサイモンとガーファンクルで、そのポール・サイモンとキャリー・フィッシャーは一時結婚してたのは、ファンの人には有名ですね。

というわけで最後に、キャリー・フィッシャーも出演していた名探偵ポアロ映画「死海殺人事件」↓。

 



posted by 麻呂 at 06:07| アメリカンポップス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月07日

1960年代初頭のアメリカンサウンドの功労者、「ウォール・オブ・サウンド」のフィル・スペクターの数奇な人生









R&R(R&B)ブーム最中の1958年、若干17才のフィル・スペクターがハイスクール仲間と共に結成したグループ「ザ・テディ・ベアーズ」の、こちら「会ったとたんに一目惚れ」(To Know Him Is To Love Him)。

その後の「天才!」フィル・スペクターを暗示させるように、結成即!全米ビルボードチャート1位に輝いた曲ですが、グループは1959年には活動停止。フィル・スペクターはここでシンガー、ミュージッシャンではなく音楽プロデューサーへの転身をはかるわけですが、まだこの時「天才!」フィル・スペクター、二十歳前、、、。

1961年にフィレス・レコードを立ち上げた時でも、フィル・スペクターは未だ21才。





で、音楽プロデューサーとしてのフィル・スペクターの名を不動のものにしたのが、1963年の↑こちらロネッツの全米ビルボードチャート、最高位2位を記録した「ビー・マイ・ベイビー」。

フィル・スペクターの、当時としては画期的な録音作業、録音方法だった「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」は一世を風靡します、、、と書いていてなんですが、これはだいたい、特に日本人には「後追い」情報で、普通の日本の洋楽ファン、音楽ファンが彼の名前を初めて聞いたのは、解散間際のザ・ビートルズのアルバム「レット・イット・ビー」のプロデュース、、、というか、既に仲違いで不穏な空気になってたメンバー含め、誰も手をつけなかった「ゲットバック・セッション」の膨大な録音音源を編集した「仕事」が初めてなのが普通で、彼がここまで後世に日本で名を残せたのは、多分に!大瀧詠一氏の彼に対する思いの発言、彼に影響を受けた仕事の影響で、これは同じく大瀧氏と山下達郎氏のソレで、後追いで「ザ・ビーチボーイズ」「ブライアン・ウイルソン」信者になった層と、全く同じ現象と言えるでしょう。

で、ロネッツのリードシンガー、ヴェロニカ・ベネットはのちにフィル・スペクターと結婚しますが、後に離婚。フィル・スペクターはこの離婚した1970年代半ば頃から「奇行」が目立つようになり、ザ・ビートルズのメンバーではジョン・レノンとジョージ・ハリスンが彼の「仕事」が好きだったようで(ザ・ビートルズの音楽プロデューサー、ジョージ・マーチンは嫌な気分だったろうね)、ジョンとジョージのアルバムも手がけてましたが、ジョン・レノンのアルバム「ロックンロール」の頃には、ジョンとフィル・スペクターの蜜月は終っており、このアルバムが一悶着あったのは、ファンの方なら釈迦に説法でしょう。

まあ、フィルは麻薬の常用もあってか?1980年初頭の早くに、音楽業界から身を引かざるをえなくなったようで(仕事も不調になったそうだし)、音楽ファンが彼の名を久々に聞くのが2003年、女優ラナ・クラークソン射殺容疑の逮捕、、、。

すったもんだの裁判の末、2009年、第2級殺人罪で有罪、禁固19年の実刑判決。現在はカリフォルニア州立刑務所の薬物中毒治療施設に収監されているとか、、、。



posted by 麻呂 at 00:00| アメリカンポップス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
ぴかぴか(新しい)こちらもおススメでするんるん