2015年05月09日

美空ひばりさん歌う、ジャズスタンダードナンバー「スターダスト」(Stardust)は素晴らしい!!









当サイトでも幾度となく紹介しておりますが、大東亜戦争後、日本を占領統治にきたアメリカGHQによって、日本ではジャズが広まった説は間違っており、大東亜戦争以前から日本には様々な洋楽が入っており、ジャズは戦前の所謂モボ、モガ、モダンボーイ、モダンガールに好まれており、ダンスホール等でミュージッシャン達にも演奏されていたわけで、こちら「天才少女歌手」美空ひばりさんの才能を見いだした、川田義雄氏(のちの川田晴久)も、そんな粋で鯔背な方。

川田晴久氏は大東亜戦争以前より、ジャズやクラシックの替え歌で抜群の人気を誇っていた、伝説の「ボーイズ」第一号「あきれたぼういず」のメンバーでボードビリアン。川田氏は幼き美空ひばりさんの天性、才能に注目(既に美空ひばりさんはお母様と、今でいうインディーズのような活動をしていた)。自身の一座の興行に、幼き美空ひばりさんを起用、当時こちらも人気絶頂だった「ブギの女王」笠置シズ子さんの物真似で、彼女はその存在を知られるようになったとか。

11才の美空ひばりさんは「河童ブギウギ」で1949年、日本の大東亜戦争敗戦4年後にデビュー。

美空さんのデビュー曲は、アフリカンアメリカンの発明した「ブギウギ」サウンドを日本語に乗せた「和製ポップス」だったわけで、翌1950年には川田晴久氏とともに第100歩兵大隊二世部隊記念碑建立基金募集公演のため渡米しており、大東亜戦争敗戦5年後に、今の感覚でいえば小学生の女のコがアメリカに渡って公演していたという歴史は凄いと思いますね。



同じ時期に在日米軍のキャンプで歌っていたもう一人の天才少女歌手(美空さんと同じ1937年生まれ)、米兵達に「エリー」と呼ばれ可愛がられていた事から「江利チエミ」と母親が命名、笠置シズ子さんの「ヘイヘイ・ブギー」や「東京ブギウギ」を歌っていた江利チエミさんが、1952年に「テネシーワルツ」でレコードデビュー。

美空ひばりさんも江利チエミさんも、和製ポップスの源流ともいえる洋楽の「ブギウギ」のリズムに、日本語詞をのせる笠置シズ子さんのカヴァーを歌い、そして洋楽も得意にしていたわけで、この当時の所謂「米軍キャンプ回り」の記録、1ドル360円の時代に米ドルでギャラをもらっていた(かなりの高給だった筈)当時の日本のジャズミュージッシャンや歌手、或いはボードビリアン達の記録、若いミュージッシャン達、若い音楽ファン達、もっと真摯に調べないと駄目ですね。

勿論、当サイト運営者とて生まれる前の「伝説」の話しなので、まだまだ当サイト運営者も研究し続けなければいけないと思っております。

こちら「スターダスト」(Stardust)は、ホーギー・カーマイケルが1927年に発表したジャズのスタンダード・ナンバーで、元々はかーなり古い曲ですが、その数年後、ピンク・クロスビーがとりあげ歌った事で、大東亜前戦争以前から日本でも一部のモボ、モガには知られていたような気もしますが、日本で一般的にこの曲が知れ渡るのは、やはり大東亜戦争敗戦以降で、グレン・ミラー楽団、ルイ・アームストロング、フランク・シナトラ、ビリー・ホリデー、ナット・キング・コール等、日本でも人気のあった方々がレパートリーにしてた、その影響と思われます。

美空ひばりさんヴァージョンは、大東亜戦争敗戦から8年の1953年。シングル「タンゴに二人を」のB面として発表されており、「タンゴに二人を」は、こちらですね↓。







江利チエミさんの「テネシーワルツ」同様、英語と日本語チャンポンですが、「スターダスト」(Stardust)しかりですが、とても英語がうまく感じますね。美空さんは英語は殆ど喋れなかったそうですが、おそらく耳がとても良かったのでしょうね。音符、メロディが自然に耳に入ってソレが歌えるのと同じように、英語もその発音も、自然に耳で覚え、それが歌える天性、才能が生まれつき備わっていたのでしょうね(だから天才少女歌手だったのでしょうが)。

YouTubeでアップされてたこちらのヴァージョンは、おそらく1965年のアルバム「ひばりジャズを歌う〜ナット・キング・コールをしのんで」からのものと思いますが、1965年と言えばその前年1964年、美空ひばりさんは「柔」で日本レコード大賞を受賞しておりますから、和洋折衷、歌謡曲とジャズスタンダードを同じように歌っていたわけですから、随分と柔軟性のある音楽活動をされていたんだなーと、今更ながら感心いたします。

posted by 麻呂 at 00:00| 米軍占領統治下の日本人歌手 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月26日

第一回の紅白歌合戦のトリは、渡辺はま子さんの「桑港のチャイナ街」(サンフランシスコのチャイナタウン)









「桑港のチャイナ街」(サンフランシスコのチャイナタウン)は、1950年(昭和25年)に発売された渡辺はま子さんのシングルレコード。

今も続くNHK「紅白歌合戦」の第一回は、未だ日本がアメリカGHQ占領統治下にあった1951年(昭和26年)1月3日に行われており、紅組の初代トリが、こちら渡辺はま子さんの「桑港のチャイナ街」(サンフランシスコのチャイナタウン)。

渡辺はま子さんは、大東亜戦争以前から歌手として活躍しており、専属レコード会社が違うので満州の大陸女優、李香蘭主演の大ヒット映画の主題歌を日本で歌う時は、渡辺はま子さんが歌っていたそうで、有名な!「蘇州夜曲」「支那の夜」は李香蘭さんと渡辺はま子さんの持ち歌として、今も有名ですね↓。



最初に作るなら、このクレジットカード!


渡辺はま子さんは戦地に慰問にまわってる最中、大東亜戦争終結を迎えた為、捕虜として1年間、支那で収容所生活をしており、又、1950年、日本人の芸能使節団として、小唄勝太郎、三味線けい子らと共にアメリカに渡っており、「桑港のチャイナ街」(サンフランシスコのチャイナタウン)は、その年の11月に発売されてます。

posted by 麻呂 at 13:25| 米軍占領統治下の日本人歌手 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月28日

東京ブギ By笠置シズ子 ジャズとブギがあって、その後ウエスタン、ラテン、マンボ。そしてロカビリー、和製ポップスが日本で流行った



自己資金0円で636万円の住宅ローン削減!




1985年、笠置シズ子さんが亡くなった後、彼女の特集を自身のラジオ番組で行ったのは、巨匠!山下達郎氏だけだったと、当サイト運営者は記憶しております。

とはいえ、当サイト運営者も笠置シズ子さんの印象は、獅子てんや・瀬戸わんや師匠司会、1960年代後半から70年代にかけ人気番組だった「家族そろって歌合戦」の審査員と、カネヨのクレンザーのCMしかリアルではないわけで、歌って踊ってる笠置シズ子さんを残念ながら知りません。

当サイトでも幾度もふれておりますが、大東亜戦争以前から日本にはジャズもアメリカ文化も入っており(欧州文化は勿論)、日本にそういうサブカルチャーがアメリカから入ってきたのは大東亜戦争敗戦後、アメリカGHQが占領統治にきてからとする、まあ、マスメディアや日教組など諸々の事情あっての事なのですが、年配の方やそのコが残念ながら多い昨今ですが、それは完全な間違い、誤った歴史認識なんですね。

笠置シズ子さんは、大東亜戦争以前からジャズ歌手であり、当時としては相当!珍しかったらしい、激しく踊り歌う彼女は、既に仮想敵国になりつつあったアメリカの「適性音楽」を歌い踊ってたわけですから、当局に目をつけられ、相当なご苦労をされたとか。

で、大東亜戦争突入後は、笠置シズ子さんは自分の楽団を率いて戦地の慰問にもいっていたとか(勿論、適性音楽なのでジャズは駄目だったでしょうが)。





笠置シズ子さんの有名な「東京ブギウギ」は、大東亜戦争敗戦の2年後にもうレコーディングされており、この曲を作曲した、巨匠!服部良一氏も大東亜戦争以前から、オーケストラに参加しつつジャズ喫茶でピアノを弾いたり、人形町のダンスホール「ユニオン」でサクソフォンを吹いており、昭和12年のヒット曲、淡谷のり子さんの「別れのブルース」の作曲者としてその名は有名になっており、大東亜戦争4年前に曲名に「ブルース」をつけているのも注目したい所です。

「別れのブルース」は、アフリカンアメリカンのブルースとは和音もメロディも違うわけですが、それでも日本で「ブルース」という言葉を広めたのは、この曲で間違いないでしょう。

そして!大東亜戦争後の笠置シズ子さんのブギウギの「ブギ」、、、。

「ブギ」はジャズのスウィング、ブルースやR&Rの(勿論、ジャズも)シャッフルのリズムによる反復フレーズ、ピアノでブルースを演奏する際の一形態と言われておりますが、これが大東亜戦争敗戦の2年目に、日本人作曲のオリジナル曲の題名につけられていたのは、未だR&R、R&Bムーブメントがアメリカで起きる前の事を考えると、誠に!画期的な事だったと言えます。

大東亜戦争突入の12年も前の1929年(昭和4年)、西条八十氏作詞の「東京行進曲」では、♪ジャズで踊って リキュルで更けて 明けりゃダンサーの涙雨 ♪シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか と、モダンボーイ、モダンガールが行き交う、開放的で洒落た銀座、そして丸ビル、浅草、新宿の風俗が唄われており、ジャズもダンサーもシネマも、当時から日本には入っていたのが、よくわかります。

マスメディアと日教組の責任重大なのですが、パブリックイメージで「戦前の日本」というのは、もーう軍国主義一色の暗黒の時代みたいな印象を戦後日本人は植え付けられてますが、実際はジャズもダンスもシネマもあったわけで、ダンサーもシンガーもミュージッシャンもいたわけで、又、戦後の高度成長時代も、日本人は皆、額に汗して油まみれになって働きまくったみたいになってますが、グランドキャバレーやダンスホールやミルクホールで踊ってた若者、演奏してたミュージッシャン、歌ってたシンガーもいたし、遊び人の「ろくでなし」も沢山いたわけで、そんなに人間、何時の時代も画一的なもんじゃないでしょ?(笑)。





笠置シズ子さんのこちら「東京ブギウギ」のステージ(映画のそれでしょうか?)、ミュージッシャン達もダンサーもいます。戦前の日本が暗黒の時代で何もなかったら、戦後2年でこれはありえない。

まあ、大戦中はアメリカの音楽は「適性音楽」だったし、「この国家存亡の一大事、非常時に」となるから、ジャズもブギも演奏できなかった歌えなかった踊れなかったけど、戦後はアメリカGHQが日本を占領統治してたわけですから、こういうサブカルチャー、ムーブメントはむしろGHQは大歓迎。ミュージッシャンもシンガーもダンサーも、やりやすくなったのでしょう。

色々、資料を調べてくとGHQ(当時の進駐軍)は日本のミュージッシャン、シンガーの評価は高かったようで、笠置シズ子さんも随分と米兵達の間で話題になったそう。彼女は1950年(戦後未だ5年)に服部良一氏と共にアメリカに公演ツアーに行きますが、1950年と言えば未だ日本はアメリカの占領統治下にありましたから、GHQの良い評判がなかったら、渡航許可はでなかったでしょう(評判をきいてアメリカ側から呼んだのかもしれませんが)。

その時のアメリカツアー経験を歌ったのが、↓こちらの「ロスアンゼルスの買物」。



アメリカいったら相手の兵隊さんは日本にいた人達で、日本語べらべら。♪アメリカ大好きアメリカよいとこ こんな楽な国はないと(笑)。で、アメリカでお土産沢山買おうと、とっても丈夫で安くて良いもの買って帰ってきたら、みんなそれは「メイド・イン・ジャパン」だったというオチのある、とても楽しい曲ですね。

posted by 麻呂 at 08:54| 米軍占領統治下の日本人歌手 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
ぴかぴか(新しい)こちらもおススメでするんるん