2015年04月10日

1958~59年のペイオラスキャンダルによる二人のDJ、アラン・フリードとディック・クラークのその後の人生の明暗



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R&Rムーブメント最盛期の1958年、それまで合法的な慣例とされていた「宣伝料を支払って、自社&自分のレコードをDJにオン・エアしてもらう」ペイオラが、突如不道徳・反倫理的として糾弾される風潮になり、アメリカ作曲家作詞家出版者協会(ASCAP)はペイオラを「放送倫理の腐敗」と激しく非難。下院議会を動かし、ペイオラを商業上の賄賂とみなし、違法とする法律が制定されます。

レイ・チャールズの自伝映画「RAY」でもこのペイオラは描かれており、札をポケットにつっこまれる、R&Rという言葉を一般的に定着させたとされる、当時人気絶頂だったDJアラン・フリードが映画の役で登場してますが、このアメリカ1有名だったDJアラン・フリードは、突如できたこの法律により、音楽業界から追放されてしまいます。

まあ、アフリカンアメリカンのブルース、R&B、ドゥワップ等を好んで使ってた、アフリカンアメリカン達が集うライブショーの司会をやったりして人気者だったアラン・フリードを、今もそうでしょうが当時は未だ黒人公民権法も制定されてない時代だったし、白人至上主義者が「良識派」として幅を効かせてた時代ゆえ、黒人のような衣装で黒人のように歌い踊る白人のエルヴィス・プレスリーが糾弾されていの同様、アラン・フリードも謀略、策略にハマった説もありますし、又、マフィアとの繋がりがアラン・フリードはあったから、フリード自身も自業自得とする説もありますが、この1958~59年のペイオラスキャンダルは、オールディーズ、50's、R&Rファンの方は、知っていた方が良いでしょうね。



1957年から1989年まで放送されたテレビ番組「アメリカン・バンドスタンド」で、30年以上に渡って司会を務めたディック・クラークも、当時は駆け出しのDJでペイオラスキャンダルに関与してましたが、アラン・フリードと違い、何やら当局とレコード会社と裏取引きがあったようで有罪実刑は免れ、それまでのプレスリー他、アフリカンアメリカンの強烈なR&R、R&B、ブルースとは異なる、もっとポップな白人の大人達も眉間に皺を寄せ嫌悪しない音楽、例えばガールポップス、ポール・アンカやニール・セダカなど、比較的健全な「お茶の間」うけする曲をディック・クラークは使うようになり、結果、多くの白人中産階級の人気者になる様は、1965年1月、肝硬変と尿毒症を患い、43歳の若さでこの世を去ったアラン・フリードの人生と対局にありますね。

ディック・クラークが駆け出しのDJだった頃、人気絶頂だったアラン・フリードは、多分「雲の上の存在」だったと思いますからね〜。





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2014年12月23日

R&Rという言葉を一般に広めた、アラン・フリードの大功績と、その人生の盛衰と光と影。その2


Alan Freed and His Rock and Roll Band - Rock and Roll Boogie (from the movie Rock Rock Rock - 1956)

前回を読む

ローカル局から中央のラジオ局にスカウトされた白人DJアラン・フリードのラジオ番組は大人気。R&Rのライブコンサートも開催したり、R&Rをもちいた映画にDJ役として登場したり、1955年頃、アラン・フリードは人生のピークとも言える時期を迎えるわけで、彼が広めた「R&R」という言葉と音楽は、幸いな事に若きビック・モロー(コンバットのサンダース軍曹)、シドニー・ポワチエが不良少年役ででてる映画「暴力教室」の主題歌、ビル・ヘイリーと彼のコメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒットした事で全米中に広がり、これから数年、正に!空前のR&Rムーブメントがアメリカで起きるわけであります。

で、ここで繰り返しますが当時のアメリカは人種差別が普通の国で、アメリカ黒人に「公民権」が与えられるのは1964年。アラン・フリードが「R&R」で人生のピークを迎えたのはその9〜10年前。

黒人音楽をラジオで流し、黒人のバンド、シンガーで白人のティーンエイジャー達も巻き込んでライブを行うアラン・フリードは「ニガーラヴァー」という蔑称で、白人至上主義者達から、これから攻撃の的になるわけです。

アラン・フリードの番組には白人至上主義者から抗議が殺到。彼が主催するライブの警備も過剰になり、警備過剰ゆえ、そこは黒人白人ともに客層はティーンエイジャー達。暴動がおきたりし、その暴動の先導者としてフリードは告訴されたり(不起訴になるが)、そんな白人至上主義者達の圧力に保守的なラジオ局は屈し、彼を解雇したり(別のラジオ局に移るが)、フリードはこれから一気に!坂道を転げ落ちるがごとく、人生が一遍します。

レイ・チャールズの自伝映画「レイ」でも描かれてますが、当時のDJはレコード会社から賄賂をもらって、そのレコード会社の売り出したいバンド、シンガーの曲を優先的に使っており、当初は自分のお気に入りのR&B、ブルース、ドゥワップを使い空前の人気DJになったアラン・フリードも、天下をとってからはその例外ではなかったようで、このDJとレコード会社の「慣習」がスキャンダルになり、当局の一斉検挙の対象にアラン・フリードもなってしまい、結果は有罪。

更に、ニューヨークに進出したアラン・フリードのマネージャーが、ジャズの名門クラブ「バードランド」のオーナーであり、又、ニューヨークの裏社会(マフィア)に強力なコネをもつモリス・レヴィーだった事も災いし、レコード会社の賄賂は当時のDJの慣習だったそうですが、彼の番組同様、彼の主催のライブに出演する=曲がヒットする有名になるというシステムが出来ていたので、新人バンド、シンガーから「出演料」をとり出演させ、そして観客からも「入場料」をとる、ぼろ儲けの商法をやっていたので(モリス・レヴィーのアイデアだったとか)、フリードの金銭感覚や道徳観は相当!麻痺してしまったよう、、、。

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まあ、これは映画「ドリームガール」でも描かれていましたが、一説によるとアラン・フリードは徹底して黒人のオリジナルにこだわり、それをカヴァーしオリジナルのように「無知な白人層」に売り出したい白人シンガーを抱えていたレコード会社、黒人のソレのパクリ含め白人作家によるオリジナル曲を無視するアラン・フリードを、アメリカの作曲家作詞家出版者協会が疎ましがっていたから、フリードはハメられた、陥れられた説がありますが、多分、、、きっと、、、そうだったんだと思います。

そして本人も大成功に舞い上がっていたから、つけこまれる隙があったのでしょう。

アラン・フリードは業界から三行半をくらい、それまでもかなり飲んでいた酒に、更に溺れていくようになり、全米でフリードが紹介したチャック・ベリーやリトル・リチャードのカヴァー含むR&Rナンバーやオリジナルを歌い演奏するイギリスのザ・ビートルズ旋風が、最高潮に吹き荒れていた1965年1月。フリードは尿毒症による肝硬変で、42才の若さで他界しています。

全米に「R&R」ムーブメントの種を巻き大成功を収めてから、僅か10年後にフリードは死んでしまっており、又、彼の名前がわりとコアなロックファン、音楽ファンに知れ渡るのは最近になってからで、ザ・ビートルズ登場以降、再び花開き更なる大盛況を迎えた、ある種ロック全盛時代の60~70年代、アラン・フリードの名前を聞く事は、殆どありませんでした。

フリードは1986年、「ロックの殿堂」に非演奏者部門で選出され、現在では世界のR&Rフリーク達に高く再評価されております。

posted by 麻呂 at 06:48| アランフリード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

R&Rという言葉を一般に広めた、アラン・フリードの大功績と、その人生の盛衰と光と影。その1


Nowhere Boy | Deutscher Kino-Trailer HD

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R&R という言葉は元々はアメリカ黒人のスラングでセックスを意味する言葉だったそうで、このへん若きジョン・レノンを描いた2009年のイギリス映画「Nowhere Boy」(ひとりぼっちのあいつ)で、若きジョンに実のママのジュリアがそう教えてる(笑)シーンがあります。

そのセックスを示唆した言葉のR&Rが、やがて「楽しい時を過ごす」「パーティをする」という意味合いに使われるようになったようで、古いジャズやブルースやR&Bの歌詞に次第に登場するようになるも、この頃はアメリカ白人、特に中産階級は全くこのR&Rという言葉には縁がなく、知らなかったそう。

では、このR&Rという言葉、何時からアメリカ白人、当時の世界ダントツ1位だった豊かなアメリカ経済を支えていた中産階級層に広まるようになったのか?。

1951年にラジオDJだったアラン・フリードが、自身の番組「ムーンドッグズ・ロックンロール・パーティ」で、それまでのアメリカ中産階級の白人層相手の白人ポップス曲をいっさい使わず、アメリカ黒人のR&B、ブルース、ドゥワップ等を「R&R」という全く新しい音楽のように紹介したのが最初だと伝わっています。

白人だったアラン・フリードは、元々ミュージッシャン志望で、当時はダンスミュージックだったジャズに学生時代は傾倒していたそうで「そういう踊れて楽しい曲」には感性が鋭かったよう。

で、当時はまだ人種差別が普通だったアメリカで白人のアラン・フリードが白人の視聴者相手のラジオで黒人音楽を流した理由には裏付けがあり、ラジオ番組のスポンサーの1つのレコード店のオーナーの店に出向いた所、店内で流れる黒人R&Bで、白人のティーンエイジャーが楽しく踊ってる姿をみて衝撃を受けたからで、まあ、今なら当たり前な事ですが、人種差別が当たり前だった当時のアメリカの「風景」「光景」では、これは珍しいソレだったわけであります。

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アラン・フリードは絶対の自信をもって黒人R&B、ブルース、ドゥワップを自信のラジオ番組で使う事を決心するわけですが、繰り返しますが人種差別が当たり前の時代、中産階級の白人相手のラジオ番組で黒人の音楽を使うなんて当時は御法度。そんな事をしたら、白人至上主義者達に何を言われるか何をされるかわかったもんじゃない時代。

ラジオはテレビと違い音しか幸い聴こえない。アラン・フリードは「R&R」という全く新しい音楽が誕生したとばかりに、全ての曲を「ロックンロール!」と叫び紹介する事で、まあ、誤摩化したわけですね。別に黒人音楽をとりあげてるわけじゃありませんよ。これは「R&Rという音楽なんです」という言い訳で。

更に絶対の自信をもっていたアラン・フリードは、ラジオだけではなくライブコンサートの興行もうってでて、その場は肌の色を越えた、白人と黒人入り乱れで音楽に酔いしれ踊りまくったとかで、これが「史上初のロックコンサート」と、今の所、歴史では位置ずけられてますね。

映画「アメリカングラフィティ」の体育館のダンスパーティー、映画「バックトゥザフューチャー」の過去のダンスパーティーのソレよりも更に!数年前のお話しですから、本当にこのアラン・フリードは偉かった!!。

そんなローカルでのアラン・フリードの活躍と、白人黒人、肌の色を越えた異常な「R&R」の盛り上がりは、次第に噂が広まり、ラジオや新聞を通じ全米中に広がり、1954年ローカル局との契約が切れたアラン・フリードは、多額な契約金で中央のAMラジオ局に移籍。彼の番組「R&Rショー」を放送したラジオ局は、たちまち聴取率全米ナンバー1のAM局になったそう。

アラン・フリードは、ミュージッシャンではないのに「R&R」で最初に大成功した男なんですね〜♪

タグ:R&R
posted by 麻呂 at 05:40| アランフリード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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