2015年03月15日

日本で「ドゥ・ワップ」という言葉を、お茶の間に迄浸透させ一般的にさせたのは、1980年のシャネルズの「ランナウェイ」









日本ではダークダックス、デュークエイセス、ボニージャックス等、古くからコーラスグループは人気が高かったわけですが「ドゥ・ワップ」という言葉は確立されておらず、ザ・キング・トーンズの「グッドナイト・ベイビー」がグループサウンズブーム終焉期の1969年にヒットした時も、彼等を「ドゥ・ワップ・グループ」とメディアが紹介していたような記憶は、当サイト運営者、ありませんでした。

まあ、グループサウンズブームは日本で初めて!R&Bという言葉が流行だした時期とリンクしており、多くのグループサウンズがR&Bのカヴァーをやっておりましたので、ザ・キング・トーンズも良くてR&Bと紹介されていたように記憶しておりますし、実際に彼等は1971年には、ルー・ロウルズやプラターズの来日公演では競演しており、コアなファン達には日本で唯一!海外のR&Bグループと競演する実力のあるグループと、ザ・キング・トーンズは高く評価されておりました。

本サイトでも再三再四繰り返しておりますが、日本で「ドゥ・ワップ」という音楽、ジャンルを知らしめた功労者は、大滝詠一氏と山下達郎氏であり(ザ・ビーチボーイズも)、更に!一般的に広く認知させたのは、やはり「お茶の間人気」になった、1980年「ランナウェイ」の大ヒットで登場したシャネルズと、断定して良いと思われます。

結局、日本のR&Rリバイバル、フィフティーズ、オールディーズの人気のピークは、シャネルズや横浜銀蝿がデビューした1980年前後であり、元々は土日になると都内全域と横浜近辺から終結する暴走族締め出し案で実施された、原宿表参道から代々木公園にかけての「歩行者天国」にこの頃、暴走族ではなく徒歩、電車を乗り継いで原宿駅までやってきて、ラジカセでR&Rやフィフティーズサウンドを鳴らし、そこでリーゼントに革ジャン、ポニーテイルにパラシュートスカート姿でツイストを踊る、所謂「ローラー」が集まり、竹の子族と共に話題になったのもこの頃↓。







この時期に思春期のとっかかりだった層(2015年現在、推定50才前後)にとっての不良の登竜門は(笑)、R&Rリバイバルだったわけですが、1980年の原宿ホコ天のこの手のムーブメント以前、それこそキャロル解散の1975年春頃、映画「アメリカン・グラフィティ」が日本で上映され、じわじわ人気になった1975年(上映開始は1974年12月)の日本は、空前の和製ふぉーく&アイドル歌手ブームであり、殆どの若者達は実はそっち側。

都市部では秀才層に多かったですが、一部の洒落た連中がハードロックやプログレを好んでおり、又、非行少年達は「踊り場」のR&B、ニューソウル、ニューファンクで踊っておりましたが、当時圧倒的多数だった!最大公約数の和製ふぉーく&アイドル歌手のファンに比べたら、それとてマイノリティ(笑)。

で、そのマイノリティのロックキッズや踊り場のコ達より!更に!更に!マイノリティだったのが、当時のR&Rとかオールディーズ、フィフティーズファンで、正に当時この手のファンは完全な「おたく」の世界。

まあ、シャネルズのメンバーやクールスのジェームス藤木氏等、有名になる前は普通に不良少年でしたから、R&B、ニューソウル、ニューファンクの「踊り場」経験もあり、又、ジェームス・藤木氏が以前何かで述べてましたが、ザ・ビートルズのカヴァーしたR&RやR&Bの影響下にも彼はあったようですが、彼等を一概に「ドゥ・ワップ」「R&R」のシャネルズ、クールスと括ると、案外、コアでマニアックな彼等の音楽的センス、ルーツを見失ってしまいます(特にクールスの場合、ジェームス・藤木氏のそれ)。

で、当時の音楽「ヲタ」の東の横綱と言えば、大滝詠一氏なわけで、大滝氏の1978年に発表されたアルバム「LET'S ONDO AGAIN」(レッツ・オンド・アゲン)の中で、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのヒット曲「スモーキン・ブギ」を音頭調にアレンジし、さらに替え歌にした「禁煙音頭」では、シャネルズ公式デビュー前のリーダー、鈴木雅之氏が「竜ヶ崎宇童」の変名で1曲丸々歌っており、おそらく鈴木雅之氏の公式レコーディング最古の音源は、これではないかと思われます。

「禁煙音頭」の間奏では、シュガーベイブ解散後、未だ全く売れていなかった、こちらも音楽「ヲタ」の西の横綱の山下達郎氏が、プラターズの「煙が目にしみる」を歌いながら咳き込んでいます。

山下達郎氏は当時CMソングをかなりやっており、シャネルズの有名なこちら「ランナウェイ」も、パイオニアのラジカセ『ランナウェイ』のCMソングとして当初は1コーラス分のみのレコーディングだったそうですが、このCMの ♪らんなうえー の鈴木雅之氏の声は、当サイト運営者も、とても印象ありましたね〜。強烈でした。



まあ、そんなこんなでシングルレコード発売する為、フルコーラス吹き込み直したレコードがシャネルズのデビュー曲になるわけですが、この曲の作詞は巨匠!湯川れい子氏で、作曲はブルーコメッツの井上忠夫氏。

シャネルズは一気に「お茶の間」の人気者になり、シャネルズのファーストアルバム「Mr.ブラック」も売れに売れ、こちらのB面で紹介された洋楽カヴァーのマニアックさは、やはり特出するものがあり、彼等の影響で多くの日本人は、「ドゥ・ワップ」という言葉を知るわけで、そして山下達郎氏も同80年、マクセルのCMソングで使われた「ライド・オン・タイム」が自身初の!大ヒットになり、この後、今に至る「山下達郎」の道を歩みだすわけで、有名になった山下達郎氏の言葉(主にラジオ)と、同年末に発売された、山下達郎氏の一人ア・カペラ・アルバム『ON THE STREET CORNER』のヒットで、更に!ドゥ・ワップは市民権を得、今に至ると言えるでしょう。

山下達郎氏は1979年、舘ひろし氏脱退後のクールスのアメリカ録音のアルバムアルバム『NEW YORK CITY N.Y.』をプロデュースをしてますが、このアルバムについては又、明日、、、。

posted by 麻呂 at 00:00| 和製R&Rリバイバル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月12日

1974年末から1975年春迄のR&Rリバイバル! ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの大功績 その2



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昨日の続き

1975年7月に、4月のキャロルの日比谷野音での解散ライブが、夕方枠のTBS「ギンザNOW」の特番でTV放映されてから、既に解散に合わせ発売されていたベストアルバム「キャロル・ゴールデンヒッツ」、解散ライブの実況録音盤2枚組LP「ラスト・ライブ 1975.4.13」、そして英語詞のデモテープや実況録音等を収録した「グッドバイ・キャロル」全てに!火がついて、ジョニー大倉氏の著書でも述べられてますが、キャロルは解散してからもの凄く!売れたんですね。

特に「キャロル・ゴールデンヒッツ」は、オリコン年間アルバム売り上げ19位を記録するほど売れ、LPのみならず、未だカーステレオが8トラ(その後のVHSのビデオぐらいでかかったやつ)から、やっとカセットテープにかわるか?かわらないか?の時代でしたから、車の中で聴く為に買われたミュージックテープも売れまくりました。

とはいえ!「キャロル・ゴールデンヒッツ」の比じゃない売れ方をしたのが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのアルバム「続脱・どん底」で、こちらはオリコン年間アルバム売り上げ9位。

1975年は歌謡史に残る!空前の和製ふぉーくブームの、商業的にピークだったと言える年で、井上陽水氏、かぐや姫、吉田拓郎氏、小椋佳氏のアルバムが、オリコントップ20中10枚もランクインしていた年。そんな時代背景の中、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドとキャロルは、当時の「売れない」と言われていた日本のロックアルバムでは、異例中の異例の売れ方をしたわけです。

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ダウンタウン・ブギウギ・バンドは1976年になると、それまでのコミカルなR&R、ブギウギスタイルではなく、普通にロックバンド然としたバンドスタイルになっても、未だ未だヒット曲を連発。同年、山口百恵さんの「横須賀ストーリー」の作曲を宇崎竜童氏が手がけてから、より歌謡芸能の世界の人のイメージが宇崎竜童氏は強くなり、その後はダウンタウン・ブギウギ・バンドはトレードマークだったツナギを着るのも止め、バンドはシリアスなブルースとロックを追求するようになり、 そして1982年の年明けに解散。

ダウンタウン・ブギウギ・バンドが自らやめた、コミカルなR&R、ブギウギスタイルは横浜銀蠅の1981年のヒット曲「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編) 」に継承されたと言えるでしょう。

又、キャロル解散ライブの音源で聴く事ができますが、ゲスト紹介でミュージッシャン達以外で、クールスの岩城滉一氏と舘ひろし氏を「バンドでもなんでもないけど」と矢沢永吉氏が紹介している通り、クールスは純然たるバイクチームでしたが、レコード会社の強い要請により(舘ひろし氏は当初は拒絶していたようですが)、1975年9月バンドレコードデビュー。

歌って踊るフロント3人に、バックで演奏するクールスのメンバー編成は、シャナナスタイルの継承でしたが、キャロル解散ライブのテレビ放映で、強面(こわもて)のバイクチーム「クールス」登場だったので、ジャニーズのフォーリーブスじゃあるまいし、バンドやりだしたら歌って踊ってって「なんだかな〜」みたいな批判、嘲笑はデビュー当時、実はあったのですが、クールスの歌って踊るフロント+バック演奏スタイル=シャナナは、その後シャネルズやチェッカーズが継承し、こちらも横浜銀蝿同様、「お茶の間」の人気者になってます。

また、キャロル解散後、すぐ!矢沢永吉氏だけが大ブレイク、今の「矢沢伝説」をスタートさせたと錯覚されてる方に出会う事がありますが、解散直後は、少なくとも矢沢永吉氏とジョニー大倉氏の人気度は僅差で(特に女性は、ジョニー大倉氏の甘い歌唱ファンが多かった)、内海利勝氏のファンも多く、お三方ともソロアルバムを発表。ジョニー大倉氏のアルバムも内海利勝氏のアルバムも、一定の評価は得ており、矢沢永吉氏の「アイラブユー・OK」だけがずば抜けて売れたという事はありませんでした。

が!しかし!キャロルの解散ライブドキュメントを撮った佐藤輝氏が、ソロになった矢沢永吉氏を追い続け、中野サンプラザのライブ映像と、当時こちらもTV主題歌で使われた「あの日にかえりたい」が大ブレイク、以前の作品含め売れだしたユーミン、松任谷由実さんとの対談交えたTV番組を再び制作放映。

アルバム「ア・ディ」に続いて、サディスティックスをサポートに起用した日比谷野音のソロライブと、このライブアルバム「スター・イン・ヒビヤ」で、キャロル解散から1年数ヶ月!矢沢永吉氏の人気は完全に独走態勢に入り、「オレは芸能界が嫌い」と言い続け、翌1977年には初の日本武道館ライブを行うまで人気はうなぎ上りだったのがこの時期で、山口百恵さんの一連のヒット曲で作曲家としても「その人あり」と、同じ頃、歌謡芸能の世界で高く評価され、より歌謡芸能の世界の大御所になっていった宇崎竜童氏のお二人は、とても対照的な人生でありました。

というわけで、日本のオールディーズ、50's人気が急激な盛り上がりをみせるのと、1975年初頭の、ダウンタウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」の大ヒット、キャロル解散ライブはリンクしてるんです。



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2015年02月11日

1974年末から1975年春迄のR&Rリバイバル! ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの大功績 その1



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日本でオリジナル曲のR&Rで、オリコンチャートのトップ10に食い込む大ヒット曲を連発、ゴールデンタイムのTVの歌謡番組に出演、お年寄りから子供まで「お茶の間」の人気者になったのは、1974年末から1975年初夏のダウン・タウン・ブギウギ・バンドが初めてであります。

矢沢永吉氏人気で、矢沢氏がソロになってから後追いで同じようなリーゼント(ポマード長髪オールバック?)バンドのキャロルの存在を知った人には意外かも知れませんが、キャロルはオリコンチャートのトップ10に入るようなシングル曲の大ヒットがなかったし(最大のヒット曲、ファンキー・モンキー・ベイビーですらです)、TVの露出もキャロルは多かったですが、主に夕方枠の「ギンザNOW」や「リブ・ヤング」の出演で、ゴールデンタイムの、お年寄りから子供まで観る歌謡番組に、キャロルは呼ばれておりません(出演拒否ではなく、単に大ヒットシングル曲がなかったから)。

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン'ブギ」、両面ヒットの「カッコマン・ブギ / 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は1975年初頭から初夏にかけ、若者向けの夕方枠は勿論、お年寄りから子供まで楽しむゴールデンタイムの歌謡番組にも頻繁に登場するほどの記録的な大ヒットになり、リーダーでシンガー&ギタリストの宇崎竜童氏のサングラス姿、そしてバンドの白のツナギ姿はセンセーショナルで、これも誤解してる方が多いですが「つっぱり」という、それまで非行少年の世界だけのスラングが一般的に知られるようになるのは、宇崎竜童氏を「元祖つっぱり」とマスメディアが持ち上げ商売してからで、実はマスメディアに「元祖つっぱり」的扱いをうけたのは、矢沢永吉氏ではないんですね。

何時の時代もマスメディアは「売れてる」人、ものに飛びつき、便乗商法で自分の所のTV番組の視聴率、ラジオの聴取率を稼ぐ、新聞雑誌の発行部数を伸ばすのを常にしているので、この当時の宇崎竜童氏と矢沢永吉氏のマスメディアの扱いの差は、ダウンタウン・ブギウギ・バンドが爆発的に売れていたのと、キャロルがそれほど売れてなかったの差だけで、宇崎竜童氏も矢沢永吉氏も所謂「不良少年」でも「つっぱり」でも何でもない、まともな真面目な音楽青年だったのは、ファンの方なら「釈迦に説法」だと思います。





まあ、ダウンタウン・ブギウギ・バンドという長ったらしいバンド名は、既にふぉーくの世界で有名人だった加藤和彦氏が作ったグラムロックバンド(当初は)、サディスティック・ミカ・バンドからの影響らしいですが、元々日本語のオリジナルR&R、ブギはミカバンドが、キャロルレコードデビューの1年前、ダウンタウン・ブギウギ・バンドレコードデビューの2年前からやっていたわけですが、全く!売れなかったので、一般的に知られていないわけであります。

サディスティック・ミカ・バンドは解散後の70年代末に、ドラマーの高橋幸宏氏がYMOで、そして80年代になってギターの高中正義氏が大人気になった事で、彼等が以前在籍していたバンドって事で、後追いで「伝説のバンド」になっているバンドで、このへんソロになって大人気になった矢沢永吉氏のファンになって、後追いで矢沢氏が在籍してたキャロルを知ったファン層に、よく似てます。

本人達が望むと望まざると、宇崎竜童氏とダウンタウン・ブギウギ・バンドが「スモーキン・ヴギ」の大ヒットで時代の寵児になっていた1975年初頭、矢沢永吉氏のキャロルは既に解散を決めており、新しいシングル曲もアルバムも発表しておらず、あとは解散ライブツアーをこなすだけ状態で、更に!ダウンタウン・ブギウギ・バンドの次のシングル曲「カッコマン・ブギ / 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は、両面ヒットになり、港のヨーコ〜の「あんたあのコのなんなのさ」は流行語にもなる、更なる!大ムーブメントをダウンタウン・ブギウギ・バンドは1975年の春から初夏にかけ起こし、キャロルの日比谷野音での解散ライブは、一般的にはダウンタウン・ブギウギ・バンドのセンセーショナルな一大ムーブメントの影に、実はかなり隠れてたんですね。

で、これが逆転するのが!4月のキャロルの日比谷野音の解散ライブを、7月になってTBS「ギンザNOW」が夕方放映した時。

この時期、「カッコマン・ブギ / 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の、日本中を巻き込んだ大ブームも一段落していたのも、丁度タイミングが良かったのかもしれません。ダウンタウン・ブギウギ・バンドの次のシングル賣物ブギ / 商品には手を出すな 」は8月の発売でしたし。

続く

posted by 麻呂 at 07:06| 和製R&Rリバイバル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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