2015年03月20日

キャロル解散とクールスレコードデビューの1975年は、ある面「時代の分岐点」だった その1









1975年4月、日比谷野音で行われたキャロルの解散ライブでの、キャロル先導と会場警備姿が、その約3ヶ月後にTV放映された事で(TBS「ギンザNOW」特番)、一躍!有名になったバイクチーム「クールス」。

そのTV放映が最高の!バンド「クールス」のプロモーション映像になったのは間違いないのですが、TV放映から僅か約2ヶ月後には、バイクチーム「クールス」の中から選ばれたメンバー達が、バンド「クールス」としてレコードデビューしてる、このあまりの期間の短い音楽デビューの経緯が、当サイト運営者も長年謎だったのですが、2013年、クールスのリーダーでありドラマーの佐藤秀光氏が、F1レーサー片山右京氏がメインキャスターをやってるローカル番組で、その経緯を話されていて、私的に長年の謎が解けました(笑)。

佐藤秀光氏によれば、事の起こりはキャロル解散ライブ後の「打ち上げ」の場。

キャロルのジョニー大倉氏とクールスのジェームス藤木氏がギターでセッションをやっていた所、佐藤秀光氏がドラムでそこに加わったのを、矢沢永吉氏や音楽業界関係者がみて、そのままバンド結成、レコードデビューになったというのですから、まあ、クールスはキャロルより更に!「シンデレラボーイ」だったかも知れませんね。





ジョニー大倉氏の著書に書かれているように、実際にキャロルのレコードが売れまくるのは解散してからで、それはやはり「ギンザNOW」特番で、例の解散ライブがTV放映された大影響からで、キャロルが本当に不良や暴走族に抜群の人気を得るのは、皮肉な事に解散してから。

キャロルの現役時代、不良の支持層も地方にはいたようですが、わりと東京の不良やチームの連中(未だ暴走族という言葉はキャロルデビューの頃はなかった)は、ソウルフリークが多かったので、R&Rのキャロルには冷ややかで、キャロルは業界筋含め(TV放映時は、現役教師まで賞賛のコメントをしてる)長髪&ベルボトム系のニューロックや和製ふぉーくの人達に支持されており、又、映像で日比谷野音の解散ライブの客席を観ても、わりと「子供」や「普通の人」が多く、その後のソロになった矢沢永吉氏の「暴走族の集会」みたいなライブの客層とは、相当!違うのがはっきりわかります。

そして、ステージ上では歌い演奏するキャロルの4人だけではなく、色々な「業界関係者」が所狭しと入り乱れており、会場警備をしていたクールス以外、その「関係者」は殆ど長髪&ベルボトム。

黒の革ジャンにダックテイルのリーゼントのクールスだけが!、如何に目立っていたか、誰でもわかるでしょう。

これがあと2、3年後の、矢沢永吉氏のソロライブになると、客席のファン層は、殆どが不良と暴走族になるわけで、このへん矢沢永吉氏もかなり当時は苦悩していたようですが、ある種キャロル(バイクチーム「クールス」も)は、それまでの和製ふぉーくやニューロックのファン層とは異なる、「そういう層」の巨大マーケットを開拓したわけですが、それはこの日比谷野音のキャロルの解散ライブが地上波で放映された影響だったと、当サイト運営者は断定しております。

又、1975年のオリコン年間アルバムチャートをみると、吉田拓郎氏、井上陽水氏、かぐや姫、小椋佳氏などの和製ふぉーく勢が上位を独占しており、その吉田拓郎氏、かぐや姫が1975年の8月2日と3日の2日間に渡って行った静岡県の「つま恋」での野外オールナイトライブコンサートには、5万人とも6万人とも伝わる観客が集まり、↓そこに集まった当時の若者達こそが!当時の流行の長髪、ベルボトムジーンズの若者達だった事を思うと、如何に!クールスのファッション、風貌、雰囲気というのが、特殊で異様なものだったか?、今の若者達でも見比べればわかると思われます。



又、商業的大成功を収めていた「和製ふぉーく」と異なり、商業的には成功してたとは言いずらかったニューロックシーンでも、1975年8月7日に後楽園球場(今の東京ドームではない)で、フェリックス・パッパラルディ(クリームのプロデューサー、マウンテンのベーシスト)、ジェフ・ベック、ニューヨーク・ドールズを海外から招聘。日本側からクリエイション、イエロー、カルメン・マキ & OZ、四人囃子が出演する「ワールドロックフェスティバル」が開催されており、和製ふぉーくの「つま恋」と、こちらニューロックの「ワールドロックフェスティバル」に詰めかけた若者達こそが!、実はキャロルやクールスのメンバーと同世代か?少し年上世代の、当時の「音楽ファン」の本流であり、その「いでたち」は皆!長髪にベルボトムのジーンズ(それも、お洒落な方の若者で)。

当時のキャロルとクールスの「いでたち」、雰囲気&風貌は、今の感覚で観ては駄目なんです。

当時の時代背景、当時の若者達と照らし合わせて、はじめて!キャロルとクールスの異端さが、わかるんです。何事も「対象物」がないと、ソレの特異性はわかりずらいものですから。

続く

posted by 麻呂 at 00:00| 和製R&Rリバイバル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月19日

映画「アメリカン・グラフィティ」の、オールディーズの楽曲の間を埋めたDJ、ウルフマン・ジャックが日本に与えた多大な影響!







↑でも、70年代の音楽評論家って、本当にこんなだったな〜(笑)。

1980年、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のアルバム「増殖」で、曲と曲の間に散りばめられてる「スネークマン・ショー」のこちらは一作。

人気絶頂のYMOのアルバムに導入された事で、一般的には有名になった「スネークマン・ショー」ですが、元々は1975年、メンズビギのファッションショーの選曲を任された桑原茂一氏が、1974年末から日本では上映された映画「アメリカン・グラフィティ」の中で、オールディーズの曲と曲の間を埋めるDJ、ウルフマン・ジャックのような音楽演出を再現したいと考案して「発明」したもので、当サイトで幾度も繰り返しておりますが、映画「アメリカン・グラフィティ」の影響というのは当時、色々な世界に波及していたんですね。

で、桑原茂一氏が選んだのが、当時は未だ未だ無名だった小林克也氏。

英語力抜群で声も素晴らしい小林克也氏の起用により、桑原茂一氏の「アメリカン・グラフィティ」のウルフマン・ジャックのパロディによるメンズビギのファッションショーは大成功したそうで、ここで「エドウィン」の店舗BGMの依頼が来るわけで、今の若い人にはわかりずらいでしょうが、1970年代「ジーパン屋」というのは、もの凄く!偉かったわけで(笑)、又、特にリーバイス、リーが顕著でしたが、ジーパンはかなり高額。

それでも各メーカーのジーパンは飛ぶように売れ、チェーン店は都内の一等地から地方都市迄、全国展開されていたので(今や完全に壊滅しましたが)、「エドウィン」のこの企画は大成功だったと言えるでしょう。

で、同時期「はっぴいえんど」解散後の大滝詠一氏が、ラジオ関東でDJをはじめ、それが伝説の「GO! GO! NIAGARA」なわけで、映画「アメリカン・グラフィティ」のオールディーズの楽曲の間を埋めるウルフマン・ジャックのDJスタイルは、こうしてスネークマン・ショーと大滝詠一氏により日本でも一般化されるわけです。







とはいえ未だ未だ小林克也氏のスネークマン・ショーも、大滝詠一氏の「GO! GO! NIAGARA」も、かーなり!マニアックなムーブメントでしたが、そんな時代背景の1976年、クールスのセカンドアルバム「ロックンロール・エンジェルス」で、オリジナル曲とR&R、オールディーズの名曲の楽曲と楽曲の間で、DJではなく、英語のママと娘の会話が散りばめられた抜群のアイデアを導入したアルバムが発表され、当時の不良達やR&R、オールディーズファンに、高く評価されるわけです。

ちなみに舘ひろし氏在籍時代の約1年7ヶ月間で、クールスは4枚アルバムを発表しておりますが、2枚はライブアルバムで、オリジナルスタジオ録音アルバムはファーストアルバムとこちらの「ロックンロール・エンジェルス」の2枚だけ。

多分、このアルバムから舘ひろし氏と他のメンバーとの音楽的ギャップ、方向性の違いが露呈したので、この後、舘ひろし氏脱退までの2枚は、ライブアルバムだったのかな?(レコード会社との契約の問題?)なんて、当サイト運営者は思っておりますが、時代背景を考えると、楽曲と楽曲の間を、DJではなく英語でママと娘の会話が散りばめられてるアイデア、もっと再評価されても良いと思われます(ファーストアルバムはバイクの排気音が使われていた)。

そんなこんなで、スネークマン・ショーを使ったYMOの「増殖」と同じ1980年、シャネルズのデビューアルバム「Mr.ブラック」でも、こちらコント以前の元々の「スネークマン・ショー」と同じ、DJを楽曲と楽曲の間を埋める方法論をとっており、又、これまた同年発売された山下達郎氏の、発売当時はカセットのみだった彼の初!コンビネーションアルバム「COME ALONG」では、小林克也氏のDJが使われており、達郎氏と結婚前の竹内まりやさんも、達郎氏の曲をDJにリクエストするファンの役で!英語で参加してます。

山下達郎氏はこの後、マクセルのカセットテープのCMで起用された「ライド・オン・タイム」が自身初の大ヒットになり、今に至る誰もが知る「山下達郎」はここからスタートしてるわけですが、その前年には山下達郎氏はクールスのアメリカ録音アルバム「ニューヨーク・シティNY」をプロデュースしており、クールスを脱退した水口晴幸氏のソロアルバムも手がけており、又、シャネルズの鈴木雅之氏がグループ公式レコードデビューする前、大滝詠一氏の「禁煙音頭」のリードボーカルをとった曲にも参加しており、リーゼントではないから、長髪だからと言って山下達郎氏や大滝詠一氏を疎んじては、オールディーズ、フィフティーズ、R&Rファンは、絶対にいけないのです。


大滝詠一のスピーチバルーン〜小林克也



posted by 麻呂 at 00:00| 和製R&Rリバイバル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月16日

1979年、山下達郎氏プロデュース!クールスのアメリカ録音アルバム「NEW YORK CITY N.Y.」



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昨日、日本で「ドゥ・ワップ」という言葉をお茶の間に迄浸透させ、一般的にさせたのは、1980年「ランナウェイ」をヒットさせたシャネルズによってと紹介しましたが、シャネルズはその名の通り、アメリカのR&Rリバイバルバンド「シャナナ」と、ドゥ・ワップグループ「ザ・チャンネルズ」をかけたグループ名なわけですから、日本で初めてフロントのボーカル数人+バックの演奏人の「シャナナスタイル」で1975年にデビューしたクールスを、公式デビュー前のシャネルズが無視していた、知らなかったとは考えずらいです。

まあ、クールスは1975年4月のキャロルの日比谷野音の解散ライブでの、キャロル先導や会場警備ぶりの映像が数ヶ月後にTBSの「ギンザNOW」特番で放映され、一躍!有名になった、バイク愛好家集団、バイカーだった為、バンドデビュー後も、ちょっと軽んじられてる所もあり、又、その独特の風貌とライフワーク、人生観に抵抗のある層も、当時は多かったので、正当に「音楽」を評価される風潮が、1970年代後半、1980年代前半は、なかったに等しいと、当サイト運営者は思っております。

又、クールスが最もTVの露出が激しかったのが(主に「ギンザNOW」ですが)、舘ひろし氏在籍時だった為、クールスの印象がこの当時のまま年を重ねてる方も多く、映画やマスコミに出たい舘ひろし氏と、純粋に音楽だけをやりたい他のメンバーとのギャップが生じ、リーダーだった舘ひろし氏は1977年にはクールスを脱退しており、今の今迄ながーい歴史のあるクールスに舘ひろし氏が在籍していたのは、僅かに1年半強だけ。

舘ひろし氏の抜けたクールスは、思惑通りマスメディアの露出が減った為、1979年にアメリカで録音されたアルバム「NEW YORK CITY N.Y.」と、このアルバムのプロデュースは山下達郎氏だったという歴史、コアなクールスファン以外、「舘ひろしクールス」は知っていても、案外知らない年配の方が多く、何時の時代もそうですが、TV、地上波の大衆に与える影響力というのは、凄まじいものだと痛感いたします。





まあ、当時は未だプロデュースした山下達郎氏も、コアなファン達には絶大なる支持を得ていたものの、マクセルのカセットテープのCMで使われ大ヒットし、一般的に山下達郎氏が知られるきっかけになった「ライド・オン・タイム」前ゆえ、達郎氏自体が、それほどネームバリューも一般的にはなかった影響もありかもしれませんが。

とはいえ、こちら「センチメンタル・ニューヨーク」。それまでのクールスとはやはりかなり異なる、山下達郎氏色の強いサウンドで、当時の言葉で言えば「シティ・ミュージック」、とても「都会的」なサウンドになっており、シャネルズがこの翌年、「ランナウェイ」で大有名になり「ドゥ・ワップ」という言葉が一般的に知れ渡った事を考えると、もう少しクールスとこちら山下達郎氏の手がけたアルバム、楽曲、再評価されても良いのではないか?と、当サイト運営者、思ったりいたします。

余談ですが、舘ひろし氏脱退後、クールスのリーダーは佐藤秀光氏がなり、その後は今の今迄リーダーは不動なわけで、又、プライベートでもバンドクールスには加入してませんでしたが(既に役者デビューが決まっていたから)岩城滉一氏とも、相変わらずのバイク好き、バイク仲間という事で、ツーリング等で交友があるようで、又、バンドクールスでもドラムを叩いており、ジェームス藤木氏や村山一海等とも息の長いバンド活動を続けているので、随分と佐藤秀光氏は人望、人徳があるんだなーと、思ったりいたします。



posted by 麻呂 at 00:00| 和製R&Rリバイバル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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