2015年05月13日

1960年前後の日本の「和製ポップス」ブームの頃、抜群の人気を誇っていた!弘田三枝子さん









当サイト運営者が子供時代、私的にとても印象に残ってる1960年前後の「和製ポップス」(洋楽メロディを日本語にのせたソレ)ブームの頃の歌手&楽曲は、歌唱力抜群でやたらと元気さが溢れてた若き弘田三枝子さんの、こちら「ヴァケーション」と、中尾ミエさんの「可愛いベイビー」ですかね〜。

弘田三枝子さんは「和製ポップス」ブーム以降、70年代初頭の「人形の家」の大ヒットで華麗なる復活をとげて以降、テレビでもジャズナンバーを歌っておりますが↓、元々、この当時の歌手の方々が若き頃(幼き頃)そうであったように、弘田三枝子さんも小学生時代から東京の立川の在日米軍基地で、アメリカのジャズやポップスを歌っていたわけで、「和製ポップス」ブームからエレキブーム、その後のグループサウンズブームに流れがかわりかける1965年7月には、日本人歌手として初めて、アメリカの「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に出場してる、相当な!実力の持ち主。



このフェスティバルは、カーメン・マクレエ、フランク・シナトラ、クインシー・ジョーンズ、カウント・ベイシーオーケストラ、スタン・ゲッツ、ジョン・コルトレーン、ウェス・モンゴメリー、デューク・エリントンなど、当時のトップクラスのジャズミュージシャンが勢ぞろいの中、ビリー・テイラー・トリオをバックに歌い、3日目のトリという大役を務めてるのは、日本人はもっと知った方が良いですね。

唯、1957年の夏といえば「エレキの夏」、ザ・ヴェンチャーズの♪テケテケブームが吹き荒れ、当時の若者達はこの時期をきっかけにエレキ&エレキバンドに流れ、又、その前年1964年にはアメリカでの大旋風の影響をうけ、日本でもザ・ビートルズのレコードデビューになった年という事もあり、「和製ポップス」ブームも終焉を迎えつつありましたので、弘田三枝子さんのこの快挙は、あまり知れ渡っていないようですね(貧困なマスメディアの責もあると思うが)。

当サイトで再三再四触れておりますが、1950年代後半から60年代初頭の日本のロカビリーブーム、「和製ポップス」ブームは、それ以前からのジャズブームの流れからきてるもので、当然、当時のそれらブームのバック演奏をされてた方々はジャズメン。或いはジャズメンを目指してボーヤ、バンドボーイをやっている時にウエスタン、ロカビリーやR&R、ポップスに方向性がかわった方々で、このへんのジャズ、ウエスタン、ロカビリー、R&R、ポップスの流れは、とても日本の戦後音楽史に重要で、これを知らずに戦後日本の歌謡芸能の世界は語れないんですよね。



posted by 麻呂 at 00:00| 和製ポップスヒット 原曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月10日

カリプソの「女王」、浜村美智子さんの1957年のヒット曲「バナナ・ボート」のシングルジャケットの悩殺度が凄い!!


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↑CD化された時に、イラストつきカラーのものにされたようですが、1957年にハリー・べラフォンテの「バナナ・ボート」をカヴァーした、所謂「和製ポップス」(洋楽メロディに日本語詞をのせたそれ)ヒットを放った浜村美智子さんのEPレコードジャケット、時代背景を考えると↓この悩殺ぶりは強烈ですね。

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↓こちらはレコード発売の宣伝ポスターだそうですが、撮影は有名な!中村立行氏。

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当時としては稀にみるスタイルの良さとプロポーション、エキゾチックな顔立ちが、写真家の中村立行氏や画家の東郷青児氏の目に留まり、ヌード・モデルとして美術雑誌で活躍。そのかたわら当時の歌手の方の履歴に必ずと言ってでてくる「在日米軍キャンプ」やキャバレーナイトクラブで歌っていたそうな、若き浜村美智子さん。

時代背景を考えると、彼女もまた、かなり!「とっぽかった」ですね。1950年代半ば頃のこれ話しですから。

まあ、1980年前後の「サーファー」とかその後の「ギャル系」「コギャル」時代なら普通かも知れませんが、当時、これだけスタイルが良くてエキゾチックな顔立ちをしてる女性というのは、浜村美智子さん以外、日本では、当サイト運営者、ちょっと思いつかないです。

1970年前後になると、エキゾチックな顔立ちで「笑わない」カルメン・マキさんや藤圭子さんが登場してきましたが、1957年の時点で「笑わない」女性歌手というのも、相当、珍しかったと思われます。浜村美智子さんの当時のレコードジャケット他、資料をネットで調べて、笑ってる写真がないんです。これは時代を考えると、かなり珍しい現象です。

当時、浜村美智子さんはご自身の衣装も自分のアイデアだったそうで、「バナナ・ボート」の衣装、コーヒー豆の袋のドレスも自分で創ったそうで、このへんを自由にさせてたというのは、やはり浜村美智子さんが、写真家の中村立行氏や画家の東郷青児氏といった「芸術家」からの推薦もあった、在日米軍キャンプやナイトクラブ、キャバレーで歌ってる実績があったから、レコード会社の人達も、彼女のセンスや歌唱に一目置いていたからでしょうね。

或いは、日本人離れしたそのエキゾチックで端正な顔立ち、抜群のプロポーションに威嚇され!、レコード会社の男性社員達がたじろいだのかもね(笑)。

また、今とは印刷技術が格段に違ったので、当時のレコードジャケットはカラーでも「メンコ」みたいな顔のソレが多いですが(笑)、流石にヌード写真の第一人者と言われる写真家の中村立行氏撮影のソレは、モノクロ使用とはいえ、今も色あせてない素晴らしいレコードジャケット。これも当時では、他に類をみない秀逸なものかも知れないです。

「バナナ・ボート」のヒット後、アメリカの「パティ・ペイジショー」出演含め、アメリカで公演、レコーディングされた経験もおありだそうで、時代を考えると凄いなーと痛感いたします。未だ、坂本九氏の「スキヤキ」(上を向いて歩こう)が全米ビルボードチャート1位を獲得する、数年も前ですからね。

posted by 麻呂 at 00:00| 和製ポップスヒット 原曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月06日

日本も所謂オールディーズを、それ以前以降に分けるのは世界標準と同じ、やはり!ザ・ビートルズだった



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50's、R&R(R&B)やポップスの所謂「オールディーズ」は、世界的にも1962年のザ・ビートルズ登場、或いは1964年のザ・ビートルズのアメリカ大旋風が、だいたいそれが定義になってますが、日本もまた!そのザ・ビートルズのアメリカ大旋風の影響により、日本レコードデビューになる1964年と言えるでしょう。

だから!ジ・アストロノウツ、ザ・ヴェンチャーズの空前のエレキブームが起こった1965年、こういうエレキインスト、サーフロックバンドを、オールディーズに数えるか数えないか?微妙なわけで、そのへんは評論家はじめ個々の判断に委ねられているわけであります(実際にアメリカでサーフロックが流行ったのは、1960年代初頭だった事もあり)。

唯、1965年のエレキブーム、そして1966年のザ・ビートルズ来日以前の、ある種それ以前からのジャズのビッグバンドとは違う、ウエスタンバンドからの流れでエレキバンドになったグループの歴史は、日本のロカビリー、オールディーズ、和製ポップス(洋楽メロディに日本語詞をのせるソレ)ムーブメントで欠かせないものになっています。



1967~68年の空前のグループサウンズブーム以前から、ブルーコメッツというバンドはあったわけで、そのバンドの歴史はとても長く、ロカビリー、和製ポップスブームの頃から活躍していたわけですが、歌手のバックバンドだったので、当時は一般的には「歌手は知ってても」、バックバンドにそれほど普通の人達は興味を持っていたわけではなかったので、業界筋では有名でも一般にはそれほど知られてしなかったわけですね。

だから当時の和製ポップスブームの頃、レコーディングやライブでブルーコメッツは活躍しており、1964年のアメリカでのザ・ビートルズ大旋風の後をうけた、日本のザ・ビートルズレコードデビュー後、それまでの日本のスタイルと違い、自分達で「歌い」「演奏し」そして自分達で曲も作る彼等に、日本のミュージッシャン達も感化されだし、ブルーコメッツに限らず、ザ・スパイダース、ザ・ワイルドワンズがそんな中心で、逆にザ・ヴェンチャーズのようなエレキインストで名を馳せていたのが、寺内タケシとブルージーンズ、シャープ・ファイブで、加山雄三&ランチャーズは歌ものとエレキインストと、その両方を当初はやっていたわけですね。

正に!時代の分岐点です。





posted by 麻呂 at 00:00| 和製ポップスヒット 原曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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